死に至る病、そして

希死念慮を柔らかな布で磨く日々 Twitter:@tmion_

今日は17/09/24

いくつか大切なことに気付いたので書き留めておく(思考は文章化しないとすぐにばらばらになって風に乗って飛んでいってしまう)。
1.自己肯定感を持つことと自己を全肯定することは違う
2.好きならそのことに真面目に取り組むこと
3.しっかり寝ること


1.自己肯定感を持つことと自己を全肯定することは違う
こんな当たり前のことにも気付いていなかったと思うと恥ずかしくなる。うぬぼれてしまったら成長せず、そもそもうぬぼれるほど狭い視野で生きているのはまずいだろう、と思ってきたけれど、だんだん趣旨がずれてきたみたいで自己肯定感を持つことまで悪いことだとしてしまっていた。これじゃあ自分に自信を持つことなんて出来るはずもない… 自信が無い人間ほど余裕はないし攻撃的になりやすいなんて話も聞くし、実際その傾向はあると思うし、自分を振り返るとやっぱり当てはまっている。うぬぼれない程度に自分に自信を持ちましょう、大事です。


2.好きならそのことに真面目に取り組むこと
僕は音楽が好きだし絵も好きだし本も好きだし勉強もそれなりに好きだけど、今までそれらを真面目にやってきたかと訊かれると答えに迷ってしまう。音楽はなんとなく聴いて、少しDAWをいじる程度だし、絵も気が向いた時に少し描くだけ、本はなんとなく読んでしまっているし、勉強もさぼってばかり。こんなんじゃどれも上達しないのは当たり前。そうやってお前は一生をだらだらと食いつぶすだけ。夢を持つのはいいけどさ、努力をしないと叶うわけないし、叶わない夢を持ち続けることがどれだけつらいかは分かっているだろうに。真面目に、コツコツと、努力をすること。僕に出来るのはそれだけでしょう。


3.しっかり寝ること
しっかり寝ると世界の解像度が違う。ぼんやりした頭でだらだらしているうちに一生は終わる訳です。眠いと何やっても駄目。インターネットやってないで早く寝ましょう。インターネットはよくない。

今日は17/09/20

絵とか詩とか、もう少し自信を持ってある意味で雑に公開してもいいのかもしれない。

徒然草 第百五十段 現代語訳

 これから芸を身につけようとする人が、「下手くそなうちは、人に見られたら恥だ。人知れず猛特訓して上達してから芸を披露するのが格好良い」などと、よく勘違いしがちだ。こんな事を言う人が芸を身につけた例しは何一つとしてない。

 まだ芸がヘッポコなうちからベテランに交ざって、バカにされたり笑い者になっても苦にすることなく、平常心で頑張っていれば才能や素質などいらない。芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、上手いのか知らないが要領だけよく、訓練をナメている者を超えて達人になるだろう。人間性も向上し、努力が報われ、無双のマイスターの称号が与えられるまでに至るわけだ。

 人間国宝も、最初は下手クソだとなじられ、ボロクソなまでに屈辱を味わった。しかし、その人が芸の教えを正しく学び、尊重し、自分勝手にならなかったからこそ、重要無形文化財として称えられ、万人の師匠となった。どんな世界も同じである。

原文

 能のうをつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知しられじ。うちうちよく習ひ得えて、さし出いでたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ならひ得うることなし。

 未いまだ堅固けんごかたほなるより、上手の中なかに交まじりて、毀そしり笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜たしなむ人、天性てんせい、そ骨こつなけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能かんのうの嗜たしなまざるよりは、終つひに上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双ならびなき名を得うる事なり。

 天下てんがのものの上手といへども、始めは、不堪ふかんの聞えもあり、無下の瑕瑾かきんもありき。されども、その人、道の掟おきて正ただしく、これを重くして、放埒はうらつせざれば、世の博士はかせにて、万人ばんにんの師となる事、諸道変かはるべからず。

兼好法師の金言ですね。頑張りたい。


「感性」という言葉について考えている。まとまったらまた書くかもしれない。

今日は17/09/19

本棚に目をやれば、『ツァラトゥストラ』『人間失格』『古代懐疑主義入門――判断保留の十の方式』『Sapiens: A Brief History of Humankind』『罪と罰』『こころ』『枕草子』、なるほど難しそうな本ばかり。前にも書いた通り、自分は自分の読んだものすら理解出来ていないのでは無いかと思うと怖くてたまらなくなる。

頭の中で誰かが叫び、罵る。「お前にとって読書は自分を飾るための空虚な行いに過ぎないのだ」「自意識だけ肥え太った豚め、理解出来もしないのに題名と権威だけで本を選ぶお前は人類の知の営みを冒涜している」「お前のような屑がそんな本を持っていても無駄だ、今すぐ全部売り払って無価値なお前は自殺しろ」「自殺しろ、役立たずの醜いケダモノめ」「自殺しろ」「自殺しろ」「自殺しろ」「自殺しろ」「自殺しろ」

もうたくさんだ。誰か早く終わりにしてくれ。

今日は17/09/18

数日振りの更新。少しでも忙しいと心が淀んで悪意と敵意の底無し沼にずぶずぶと沈み込んでしまう。

今日はまるで夏のように晴れた一日だった。高く青い空、白く輝くセーラー服、揺れる艶のある黒髪。夏は苦手だ。彼女たちの眩しさの前では、僕は無力だから。あまりにも脆弱な僕の魂は悲鳴を上げ、制止を振り切って車道へ飛び出そうとする。どうして僕はこんな醜い姿に、穢れた存在に生まれついてしまったのか、と泣き喚きながら。

今日は17/09/14

一日一日が重い、永い かつて相対性理論についてアインシュタインが記者に述べた説明の通り、時間は伸び縮みするのだ…


コンビニで会計する時にさえ挙動不審になってしまう自分が嫌いです


当たり前だけど、勉強は出来ると楽しいし、出来ないと(基本的に)楽しくはないので、出来るか出来ないかのちょうど境のところをやるのが一番楽しそうだと思った(数学と物理と化学を想定しています)

今日は17/09/13

鏡音リンエンゼルフィッシュ【オリジナルPV】
昨日の深夜に知った曲、今日は時間があればこればかり聴いていた 何故か昔から「環状線」という言葉の響きが好きでたまらない


昨日はメタ認知について書いたけれど、今日も少し書きます 躁と鬱の行き来を繰り返す度にメタ認知の精度が上がっている気がする それにしても躁の時は本当に調子が良い 少しぐらいつらくても、つらさを感じている事を認識して意識的に思考を切り替えようという発想(一連の過程はメタ認知)が出来て、本当に思考を切り替えることも出来るから精神が丈夫になっている


表情が感情に大きく影響する(逆ではない!)ことはもう脳科学的に証明されているらしい つまり、例えば、笑顔でいる事は気分を明るくさせ得る、ということ(意識高い系の話や根性論で聞くような話だけれど、僕はそれらの話とは無関係に、脳の研究の結果について書いています) とは言っても四六時中笑顔でいるのも気持ち悪いので、せめて死んだ目とか仏頂面とかをするのはやめようと思う

今日は17/09/12

今日はよく昔の失敗を思い出す日だな、と思っていたが、そうではない事に気付いた。


メタ認知は僕が苦手としていることの1つ。それはともかく、春樹の『風の歌を聴け』の、

「昔ね、あるところにとても人の良い山羊がいたんだ。」 素敵な出だしだった。僕は目を閉じて人の良い山羊を想像してみた。 「山羊はいつも重い金時計を首から下げて、ふうふう言いながら歩き回っていたんだ。ところがその時計はやたらに重い上に壊れて動かなかった。そこに友だちの兎がやって来てこういった。<ねえ山羊さん、なぜ君は動きもしない時計をいつもぶらさげてるの?重そうだし、役にもたたないんじゃないか。>ってさ。<そりゃ重いさ。>って山羊が言った。<でもね、慣れちゃったんだ。時計が重いのにも、動かないのにもね。>」

医者はそう言うと、自分のオレンジ・ジュースを飲み、ニコニコしながら僕を見た。僕は黙って話の続きを待った。 「ある日、山羊さんの誕生日に兎はきれいなリボンのかかった小さな箱をプレゼントした。それはキラキラ輝いて、とても軽く、しかも正確に動く新しい時計だったんだね。山羊さんはとっても喜んでそれを首にかけ、みんなに見せて回ったのさ。」 そこで話は突然に終わった。 「君が山羊、僕が兎、時計は君の心さ。」 僕はだまされたような気分のまま、仕方なくうなずいた。

という一節を思い出す。憂鬱に慣れてしまうのは非常に良くないと思っていて、なぜなら、慣れる事によって現状を改善しようという意欲が喪われてしまうから。ぼくは憂鬱や不条理に力強く抗っていかなければならない。憂鬱に流されるままでいる事をよしとしてはならない。

今年に入ってから少し真面目に文章というものに向き合うようになって、今まで自分がどれだけ文章を"読み流し"てきたか、という事を思い知った。文章、ひいては文章表現に対して自分がどれほど鈍感で無知であったか。そもそも、文章に対する感度、という概念を持ってすらいなかったように思う。精進しなくてはならない…

課題は多いけれど、課題を認知できていることは良い事だ。目的地までの距離を考えれば憂鬱に溺れ立ち止まっている暇など無いのだから。