死に至る病、そして

希死念慮を柔らかな布で磨く日々 Twitter:@tmion_

今日は17/09/12

今日はよく昔の失敗を思い出す日だな、と思っていたが、そうではない事に気付いた。


メタ認知は僕が苦手としていることの1つ。それはともかく、春樹の『風の歌を聴け』の、

「昔ね、あるところにとても人の良い山羊がいたんだ。」 素敵な出だしだった。僕は目を閉じて人の良い山羊を想像してみた。 「山羊はいつも重い金時計を首から下げて、ふうふう言いながら歩き回っていたんだ。ところがその時計はやたらに重い上に壊れて動かなかった。そこに友だちの兎がやって来てこういった。<ねえ山羊さん、なぜ君は動きもしない時計をいつもぶらさげてるの?重そうだし、役にもたたないんじゃないか。>ってさ。<そりゃ重いさ。>って山羊が言った。<でもね、慣れちゃったんだ。時計が重いのにも、動かないのにもね。>」

医者はそう言うと、自分のオレンジ・ジュースを飲み、ニコニコしながら僕を見た。僕は黙って話の続きを待った。 「ある日、山羊さんの誕生日に兎はきれいなリボンのかかった小さな箱をプレゼントした。それはキラキラ輝いて、とても軽く、しかも正確に動く新しい時計だったんだね。山羊さんはとっても喜んでそれを首にかけ、みんなに見せて回ったのさ。」 そこで話は突然に終わった。 「君が山羊、僕が兎、時計は君の心さ。」 僕はだまされたような気分のまま、仕方なくうなずいた。

という一節を思い出す。憂鬱に慣れてしまうのは非常に良くないと思っていて、なぜなら、慣れる事によって現状を改善しようという意欲が喪われてしまうから。ぼくは憂鬱や不条理に力強く抗っていかなければならない。憂鬱に流されるままでいる事をよしとしてはならない。

今年に入ってから少し真面目に文章というものに向き合うようになって、今まで自分がどれだけ文章を"読み流し"てきたか、という事を思い知った。文章、ひいては文章表現に対して自分がどれほど鈍感で無知であったか。そもそも、文章に対する感度、という概念を持ってすらいなかったように思う。精進しなくてはならない…

課題は多いけれど、課題を認知できていることは良い事だ。目的地までの距離を考えれば憂鬱に溺れ立ち止まっている暇など無いのだから。